2008年02月26日

カール・ヤスパースの来歴

本当にすごいことだったんですね。
携わったひと本当にすごいです。

早い頃から哲学に関心を抱いていたものの、父が法曹に身を置いていたため、ヤスパースは大学で法学を学びはじめる。まもなく1901年には医学の道へ転向。1909年に医学部を卒業した後はハイデルベルクの精神病院で医師として働く。そこで当時の医学界の精神病に対する姿勢に疑問を抱き、精神医学の方法論の改良を目指すようになる。1913年にはハイデルベルク大学で精神医学を教え始め、以後、臨床に戻ることはなかった。しかし彼自身の精神医学に対する関心は終生変わることはなく、処女作『精神病理学総論』の分量を大幅に増やし、改訂版第4版として公刊したのは第二次世界大戦後である。

精神医学から哲学に転じたヤスパースは1921年から1937年まで同大学哲学教授を務める。この時代にハンナ・アーレントも彼の教えを受けた。ナチス台頭後、妻のゲルトルートがユダヤ人であったことやナチスに対する反抗で大学を追われたものの、妻の強制収容所送致については自宅に2人で立て籠もり、阻止し通す。大戦も末期の頃、ヤスパース夫妻の収容所移送が決定されもはや自殺する以外に打つ手がなくなるところまで追い詰められたが、その移送予定日も残すところ数十日程度に迫った頃に米軍が彼の住むハイデルベルクを占領したため、後年自ら「自国の政府により殺される寸前、敵国の軍隊により命を救われた」と述懐しており、この戦争体験は彼の哲学に対して見逃すことのできない強い影響を与えたと言われている。戦後、ハイデルベルク大学の復興に尽力するも、ドイツの戦争責任問題について執筆した『責罪論』を巡って周囲から心ない非難を浴びせられたため、ドイツの将来に失望して、1948年にスイスのバーゼル大学の哲学教授となった。ドイツに対する裏切り者呼ばわりされ、彼は深く傷ついたという。

しかし彼の多彩な活動はとどまるところを知らず、特に戦争体験を機に彼は政治哲学的著作を数多く執筆し、既述されている『責罪論』もその1つである。また戦後に始まった資本主義と社会主義の二大陣営による東西冷戦が核武装競争と化す過程に対して、核兵器という全人類を絶滅させる恐れのある兵器、及びその破壊力に対する恐れから両陣営ともが気にかける手詰まり状況、このような状況を彼自らの概念である「限界状況」と捉え、政治的な対話を「交わり」と捉えるなど、単なる学問としての哲学にとどまらない積極的な活動を展開していたことも、彼の戦争体験が深く関わっていると考えられる。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月16日

観応の擾乱の発足

予習復習いたしましょう。
この事の背景には何があるんでしょうか。

高師直の台頭と足利直義との対立
北朝を擁立し、京都で成立した初期の足利幕府においては統治機構が未整備で、足利家の家政機関を利用しての統治が行われていた。将軍の足利尊氏は、鎌倉幕府の討幕や、建武の新政からの離反などにおいて尊氏を積極的に補佐した実弟の足利直義に政務を任せており、訴訟関係をはじめとする幕政は直義が司っていた。尊氏は足利家当主としての地位や軍事的指揮権は保持し、政所や侍所などの家政機関は管轄下に置いていた。この政治権力の分立状態は「両将軍」と評された。

高氏は足利家譜代の被官で、高師直は執事を務め、軍事指揮官としても関東の南朝勢力を掃討して、関東を平定し幕府の支配下に置くなど軍事的大功を立てる。兄弟の高師泰も新田義貞、北畠顕家を討つなど軍事的功績を挙げ、幕府の中枢に参画するようになる。

足利直義は立場上、武家によって自領である荘園を蚕食された公家や寺社の訴えを扱うことが多く、鎌倉時代のように、公家や寺社の領地である荘園については半済令の受け入れと引き換えに独立性を認め武家の支配下に置かないことで、公家・寺社と武家との対立を避けようとしていた。一方、師直は、武士たちが幕府に敵対したり南朝側についたりしないよう、十分な恩賞を与える必要を感じ、守護・地頭やその配下という形で公家や寺社の荘園を実際に管理している武家が土地支配者となるべきであると考えていた。このため、直義を支持する一派と、師直を中心とする一派が、幕府の主導権をめぐって対立を深める。尊氏は傍観的立場を取ろうとするが、次第に師直派に取り込まれていく。その中で高師直が塩冶高貞を殺害する事件を起こし、各地の武士の間にも動揺が走った。

1347年(正平2年/貞和3年)に入ると、南朝(吉野朝廷)が京都奪還の動きを見せる。足利直義は尊氏の意向を受けて細川顕氏らを派遣してこれを討とうとするも失敗する。一方、高師直は翌1348年(正平3年/貞和4年)の四條畷の戦いにおいて楠木正行ら南朝(吉野朝廷)方を撃破し、更に勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、南朝を賀名生(奈良県五條市)へ逃げ込ませた。この結果、幕府内における直義の発言力の低下と師直の台頭が生じ、両派の対立に一層の拍車がかかった。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年09月25日

65歳以上の免許自主返納率について

地域によって自主返納率がこれだけ違うんですね?確かに地方なんかの交通手段が限られているような場所では自家用車での移動が必要ですからね。ただ、高齢者の運転って見ていても危険だなと感じることが多々あるんですよね。なので、高齢者の返納者を対象にした割引制度への取り組みは全国的に展開して欲しいですね。

『参照記事』

65歳以上の運転免許保有者のうち、06年に免許を自主的に返納した人の割合(返納率)が都道府県により最大約70倍の差があることが、毎日新聞の調べで分かった。返納率の高い地域では、運転をやめた高齢者の移動や生活を支援する取り組みが進んでいる一方、施策や交通機関の整備が進んでいない所では、いくつになっても運転をやめられない高齢者が多い傾向が浮かんだ。
 高齢ドライバーによる事故増加を受け、警察庁は98年、加齢や病気による身体機能の低下を感じる人に対し、運転免許を自ら公安委員会に返してもらう制度を導入した。毎日新聞が47都道府県警に管内の返納件数を尋ねたところ、65歳以上の自主返納者は06年に全国で2万1390人。年代別統計を取り始めた02年に比べほぼ3倍に増えた。
 しかし、警察庁が明らかにした都道府県別の高齢者免許保有者数(06年末現在)をもとに、返納者の割合を地域別で算定したところ、全国平均(0.21%)を上回ったのは全体の3割にとどまった。
 返納率が最も高かったのは0.69%の静岡県で、高齢者1万人当たり69人が返納した計算だ。同県のバス・鉄道会社は返納者を対象とした料金割引制度を導入。続く富山県(0.49%)では富山市が同様の制度と地域交通網の整備など「脱クルマ」の街づくりを進め、3位の青森県(0.45%)は、青森市が高齢者の市街地への移住支援に取り組んでいる。地下鉄やバスなどの交通網が充実している首都圏や近畿圏なども上位に入った。
 これに対し、返納率が0.1%に満たない地域は18県。4年間でダウンした所も6県あった。大半は過疎化が進んでおり、最下位の和歌山県は0.01%で、返納者はわずか16人。トップの静岡県とは比率で69倍の差があった。
 一方、02年に返納率が0.01%で最下位だった高知県は、その後返納者の支援に取り組む自治体が現れ、06年には0.14%にアップし、25位になった