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2008年01月16日

観応の擾乱の発足

予習復習いたしましょう。
この事の背景には何があるんでしょうか。

高師直の台頭と足利直義との対立
北朝を擁立し、京都で成立した初期の足利幕府においては統治機構が未整備で、足利家の家政機関を利用しての統治が行われていた。将軍の足利尊氏は、鎌倉幕府の討幕や、建武の新政からの離反などにおいて尊氏を積極的に補佐した実弟の足利直義に政務を任せており、訴訟関係をはじめとする幕政は直義が司っていた。尊氏は足利家当主としての地位や軍事的指揮権は保持し、政所や侍所などの家政機関は管轄下に置いていた。この政治権力の分立状態は「両将軍」と評された。

高氏は足利家譜代の被官で、高師直は執事を務め、軍事指揮官としても関東の南朝勢力を掃討して、関東を平定し幕府の支配下に置くなど軍事的大功を立てる。兄弟の高師泰も新田義貞、北畠顕家を討つなど軍事的功績を挙げ、幕府の中枢に参画するようになる。

足利直義は立場上、武家によって自領である荘園を蚕食された公家や寺社の訴えを扱うことが多く、鎌倉時代のように、公家や寺社の領地である荘園については半済令の受け入れと引き換えに独立性を認め武家の支配下に置かないことで、公家・寺社と武家との対立を避けようとしていた。一方、師直は、武士たちが幕府に敵対したり南朝側についたりしないよう、十分な恩賞を与える必要を感じ、守護・地頭やその配下という形で公家や寺社の荘園を実際に管理している武家が土地支配者となるべきであると考えていた。このため、直義を支持する一派と、師直を中心とする一派が、幕府の主導権をめぐって対立を深める。尊氏は傍観的立場を取ろうとするが、次第に師直派に取り込まれていく。その中で高師直が塩冶高貞を殺害する事件を起こし、各地の武士の間にも動揺が走った。

1347年(正平2年/貞和3年)に入ると、南朝(吉野朝廷)が京都奪還の動きを見せる。足利直義は尊氏の意向を受けて細川顕氏らを派遣してこれを討とうとするも失敗する。一方、高師直は翌1348年(正平3年/貞和4年)の四條畷の戦いにおいて楠木正行ら南朝(吉野朝廷)方を撃破し、更に勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、南朝を賀名生(奈良県五條市)へ逃げ込ませた。この結果、幕府内における直義の発言力の低下と師直の台頭が生じ、両派の対立に一層の拍車がかかった。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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